ニュージーランドで見たもの|犬と暮らす今、思うこと

ニュージーランドで見たもの|犬と暮らす今、思うこと

今から約20年前。

私はニュージーランドで、1年間ワーキングホリデーをしていました。

きっかけは、25歳のときにたまたま見た雑誌でした。

そこに載っていたワーキングホリデーの記事を見て、

「私、この狭い箱の中で一生を終えるのは嫌だな」

と思ったのを覚えています。

当時、私は保育士をしていました。

私が勤めていた保育園では、新人の頃は複数担任で乳児クラスを受け持ち、その後、3歳、4歳、5歳と同じ子どもたちを見ていく仕組みでした。

せっかくなら、この子たちを卒園まで見届けたい。

ワーキングホリデーの年齢制限から逆算すると、ギリギリ間に合う。

そこから英語を勉強し、エージェントを探し、資金を貯め、一人暮らしの家をどうするか考えながら、数年かけて準備しました。

そして担当していた子どもたちを送り出し、保育士を辞めてニュージーランドへ渡りました。


目次

「みんな同じ」が当たり前じゃなかった

ニュージーランドで最初に通ったのは語学学校でした。

世界各国から来た人たちが、同じ教室で勉強していました。

育った国も、文化も、宗教も、生活習慣も違う。

日本にいた頃の私にとって、それだけでも新鮮な毎日でした。

その後、アップルピッキングの仕事もしました。

敷地内にはバンガローやキャビンが並び、国籍の違う人たちが2〜3人でシェアして暮らします。

テレビもない。

ゲームもない。

近くにお店もない。

日本人たちは、

「何して過ごす?」

と戸惑っていました。

ところが、ほかの国から来た人たちは何もなくても楽しそうでした。

カードゲームをしたり、ギターを弾いて歌ったり、川へ泳ぎに行ったり。

楽しみって、用意してもらうものじゃなくて、自分たちで見つけるものなんだ。

そんなことを感じたのを覚えています。


保育士だった私が驚いた、ニュージーランドの保育園

その後、私はオーペアという仕組みを利用しました。

子どものお世話をする代わりに、住む場所と食事を提供してもらう生活です。

お世話になったご家族のご厚意で、子どもたちが通う保育園や幼稚園にも一緒に行かせてもらい、ボランティアをしていました。

そこで見た光景は、日本で保育士をしていた私にはかなり衝撃的でした。

子どもたちは、それぞれ自分の好きなことをしています。

絵の具で絵を描いている子。

カメラで写真を撮っている子。

ギターを弾いている子。

一日中、自分の興味のあることに夢中になっている子もいました。

その子の作品を集めて、園が展示会を開くこともありました。

そして、外では靴を脱ぎ捨てて泥んこになっている子どもたち。

先生たちはというと、

テラスでお茶を飲みながら、ギターを弾いて歌っています。

当時の私は、

「……仕事してるのかしら🤣?」

と思っていました。

おやつの時間も、日本で私が経験していたものとはまるで違いました。

その日の担当の保護者がフルーツを用意してテラスへ運んでくる。

遊んでいた子どもたちは、自分のタイミングでやってきて食べ、また遊びに戻っていきます。

日本の保育園で私が経験していた、

「はーい、おやつの時間ですよ」

から始まり、

手を洗って、椅子に座って、みんなで「いただきます」をして、終わるまで待って、次はみんなで同じ活動へ。

そんな時間の流れとは、まるで違いました。

もちろん、これは約20年前に私が実際に関わった園で見た光景です。

ニュージーランドのすべての保育園が同じだった、という話ではありません。

それでも私は、そこに流れていた

「みんな同じじゃなくていい」

という空気に、とても惹かれました。

そして興味深いのは、ニュージーランドの教育が「自由にさせているだけ」ではないことです。

現在の国際的な学力調査PISAでも、ニュージーランドの15歳は、読解・数学・科学の3分野すべてでOECD平均を上回っています。

現在のニュージーランドの幼児教育カリキュラム「Te Whāriki」でも、子どもはそれぞれのペースで学び、その子が興味を持ったことを遊びや学習を通してさらに探究できるような考え方が示されています。

子どもたちは、それぞれ好きなことをしている。

先生は一斉に子どもたちを動かしているようには見えない。

それでも、学びはちゃんとある。

「みんな同じことを、同じ時間に、同じようにすること」と、
「学ぶこと」は、同じではないのかもしれない。

当時の私は、そんなことを考えさせられました。


私は昔から「みんな同じ」が苦手だった

振り返ってみると、ニュージーランドへ行ったから、この考え方になったわけではないように思います。

私は日本で保育士をしていた頃から、

みんなで同じ絵を描く。

同じタイムスケジュールで動く。

少し基準から外れると「問題のある子」「扱いづらい子」と見られてしまう。

そんなことに違和感がありました。

「問題児」と呼ばれている子を見ると、

誰かわかってくれー!
僕は僕なんだー!

そんな心の声が聞こえてくるような気がしていました。

だからニュージーランドで見た光景に、あれほど惹かれたのかもしれません。


犬と暮らす今、ニュージーランドを思い出した

あれから約20年。

今の私は、犬と暮らしています。

そして最近、ニュージーランドは「犬と暮らしやすい国」「犬の先進国」として紹介されることがあると知りました。

そういえば。

私がお世話になっていた家の前には、広大な芝生が広がっていました。

すぐ隣には牧場。

庭にはジャグジーがあり、夜になると、そこからミルキーウェイを見ることができました。

夕方になれば、家族でカヤックをしたり、乗馬をしたり、広い庭でバーベキューをしたり。

当時の私は、そんな暮らしを見ながら、

「豊かだなあ」

と感じていました。

犬と暮らしている今になって思います。

あんな環境で暮らしている犬たち、のびのびしていただろうな。

そこで、現在のニュージーランドの犬事情を改めて調べてみました。


犬の自由と、人間側の責任

調べてみて興味深かったのは、

「犬を自由にすること」と「人間が責任を持つこと」がセットになっている

ように見えたことでした。

ニュージーランドのDog Control Actでは、飼い主には犬を適切に管理し、十分な世話や食事、水、住環境だけでなく、適切な運動を与えることも求められています。

また、犬をコントロール下に置くことも飼い主の義務です。

さらに、ニュージーランド政府の犬の福祉基準では、犬には健康とウェルビーイングを維持するために十分な運動を毎日与えることが最低基準とされています。

推奨される方法としては、年齢・犬種・その犬自身の状況を考慮しながら、毎日リードやチェーン、囲いから離れて、周囲を探索できる時間を設けることも示されています。

つまり、

「自由にしていいよ。その代わり、犬のことはきちんと理解して管理してね」

という考え方が見えてきます。


ノーリードOK。でも、どこでも自由ではない

ニュージーランドには、犬がノーリードで過ごせる場所があります。

広い芝生やビーチなどで、犬が走ったり、匂いを嗅いだり、周囲を探索したりできる場所です。

一方で、

リードが必要な場所。

犬が入れない場所。

許可が必要な場所。

それぞれが分けられています。

特にニュージーランドは、固有の野鳥や生態系を大切にしている国です。

自然保護省(DOC)が管理する国立公園や野生動物保護区などでは、原則としてペットを連れて入ることはできません。

リードをつけていても、キャリーに入れていてもダメな場所があります。

犬の自由を大切にする一方で、守るべきものがあれば、そこにはきちんと線を引く。

自由=何をしてもいい

ではないところも、とても印象に残りました。


飼い主が「試験」を受ける制度もあった

そして、もうひとつ驚いたことがあります。

ニュージーランドでは全国一律の「犬を飼うための免許」があるわけではありません。

でも自治体によっては、Responsible Dog Ownerなど、責任ある飼い主を認定する制度があります。

そこでは、犬の飼育や法律についての筆記試験を受けたり、Animal Control Officerが自宅を訪問して、フェンスや寝床、運動できる環境などを確認したりする自治体もあります。

条件を満たして認定されると、犬の年間登録料が割引される場合もあります。

犬だけに、

「吠えないでね」

「勝手に行かないでね」

「ちゃんと戻ってきてね」

と求めるのではなく、

人間側にも、犬と暮らすための知識と責任を求める。

私は、この仕組みがとても面白いと思いました。


自由にするために、教える

犬に自由を与える。

好きなように走らせる。

好きなことをさせる。

それだけなら簡単です。

でも、人間社会の中で犬が自由に動ける範囲を広げようと思ったら、

呼び戻しができること。

人やほかの犬に迷惑をかけないこと。

危険な場所では止まれること。

必要な場面では人間の指示を聞けること。

そんな土台も必要になります。

自由とトレーニングは、反対側にあるものではない。

むしろ、

教えるから、任せられる。
任せられるから、自由にできる。

私はラムと暮らしていて、そんなふうに感じることがあります。


子どもも犬も、根っこは同じなのかもしれない

ニュージーランドの記事を書こうとしていたら、なぜか20年前の保育士時代まで話が戻ってしまいました。

でも振り返ってみると、私がずっと引っかかっていたものは、同じだったのかもしれません。

みんなと同じことができる子が「いい子」。

大人しくしている犬が「いい犬」。

人が好きな犬。

犬同士で遊べる犬。

撫でられるのが好きな犬。

そんなひとつの基準に当てはめるのではなく、

この子は、何が好きなんだろう。

何が得意なんだろう。

何が苦手なんだろう。

どうしたいんだろう。

それを見る。

もちろん、子どもと犬は同じではありません。

でも私にとって、

「その子自身を見る」

という根っこの部分は、どうやら昔から同じだったようです。

約20年前。

「この狭い箱の中だけで、一生を終えたくない」

そう思って飛び出したニュージーランドで、私は「みんな違っていていい」という景色をたくさん見ました。

そのときは、それが20年後の犬との暮らしにつながるなんて、まったく思っていませんでした。

犬に何かを教える。

犬から何かを教わる。

その子を見ながら、環境を整える。

そして、できることが増えたら、少しずつ任せてみる。

Teaching each other.

Little Stepsで書いていることの根っこは、

もしかしたら、ずっと昔から私の中にあったのかもしれません。


🐾合わせて読みたい

🌿犬は「可愛い」だけの存在じゃない。その子が犬として満たされる暮らしについて考えた記事です。

🌿保育士時代に出会った子どもの姿から、犬にも「その子らしく力を発揮できるもの」があるのでは?と考えた記事です。

🌿犬はどう生きたい?シリーズはこちらにまとめています。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次